「空気」の研究 山本七平 ☆☆☆☆☆☆

日本の道徳=差別の道徳。
⇒日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、「口にしたということが不道徳行為」とみなされる。したがってそれを絶対に口にしてはいけない。というのが日本の道徳。
 
第二次世界大戦、明らかに負けるとわかっていても、そんなことを言える「空気」ではなかった。
「~せざるを得なかった。」という言葉。→強制⇒空気に強制されたのなら、空気の責任はだれも追及できない。
 
議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準になることが多い。
 
物質から何等かの心理的・宗教的影響を受ける。言い換えれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。
 
一体なぜ我々は物質・物体に何らかの臨在感を感じ、それに支配されるのか。それを究明して「空気の支配」を断ち切ることの方がむしろ科学的。
 
臨在感的把握
…物質から何らかの心理的・宗教的影響を受ける。言い換えれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。
 
 
イスラムユダヤ、キリスト強的考え方。
「物質はあくまで物質であって、その物質の背後に何かが臨在すると感じてこれから影響を受けたり、それに応対したり、拝礼したりすることは、被造物に支配されてこれに従属することであるから、創造主を冒とくする罪だ」というっ考え方が基本になっている。
⇒臨在感的把握の絶対化に基づく「空気の支配」は「悪」なのである。
 
偶像破壊・影像破棄は、今でもイスラム圏では行われている。
一神教(モノティズム)の世界。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、全ては、対立概念で把握しなければ罪。
⇒この世界では、空気は発生しえない。発生してもその空気が相対化されてしまう。そしてその相対化のこの根底が残すものは、最終的には契約だけということになる。
 
一方、日本の世界は、一言でいえばアニミズムの世界。
アニマ≒空気
アニミズムとは「空気」主義
日本社会は、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その「空気」で支配されてきた。
⇒「正しいものは報われる」といったものは絶対であり、この絶対性にだれも疑いを持たず、そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じ続けていた。そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。
 
天皇制=偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情輸入によって生ずる空気的支配体制。
 
☆☆正直者がバカを見ない世界であってほしい。その考えが絶対ならバカを見た人は不正直な人間なのか。という考え。
ヨブ記」 ヨブという正しい人物が、天災と人災ですべてを失った。その時、三人の友が見舞いに来る。あまりの悲惨さにだれも口がきけず、慰めの言葉も出せず、「七日七より、彼とともに地に座していて、一言も彼に話しかけるものがなかった。」
その中の一人がついに口を開き、「正しい者は必ず報われるのだから、こうなったからには、お前には隠している罪感があるに違いない。この状態から逃れるには、まず素直にそれを認めることが先決だ」という言葉。
=一つの命題(正しいものは報われる)絶対化された場合の恐ろしさ。
⇒一つの命題、たとえば「公害」という命題を絶対化すれば、自分がその命題に支配されてしまうから、公害問題が解決できなくなる。
 
もちろん西洋の社会でも、音楽や祭事については、一種のムードに支配されるということは今でもある。
しかし、彼らが空気の支配を徹底的に排除したのは、多数決による決定だったことである。
 
☆多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法に過ぎない
日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知からきたものであろう。正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。
 
日本における多数決は「議場・飲み屋・二十方式」とでもいうべき「二空気支配方法」をとり、議場の多数決と飲み屋の多数決を合計したら最も正しい多数決ができるのでは?
 
「水を差す」と「空気」が崩壊する。
⇒「水」は最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻すことを意味する。
 
状況論理と空気の違い
状況論理…あの状況ではこうだが、この状況ではああだ。といった、状況を論理的に判断し行動する。
空気…その場の「空気」を基に判断する。
 
西洋は、絶対的な観測の基準(はかり)をもって物事を判断する。⇒非人間的なもの
 
日本人は、人間的なものに基準を求める。⇒人間に同一性を求める。
 
百メートル走をする。人間が動かせない地球基準の長さ100mを正確に計り、同様に人間が動かせない「時間」を極力正確に計ってその結果を平等に記し、この平等によって「個」を公正に表すことが平等であっても、一等二等三等は「差別」になるから、全員同時に到着するよう、それぞれに操作を加えることは平等にならず、逆に不公平になる。
 
日本人…人間はみな平等という臨在感的基準
欧米人…メートル等、観測者がだれであっても明白な基準。
 
☆☆☆孔子は諸侯に考えを説いて行ったが、「君君たらずんば、臣臣たらず」といった関係だった。
→両者の関係は信義誠実を基にすべきことであるといった契約的な意味の誠実さで、これがおそらく「忠」という概念
彼にとっては、この「忠」という概念と、血縁という「孝」とは、あくまで別概念だった。別概念だからこそ、別々の言葉で表現され、この二つを同一視すれば、とんでもない社会を招来してしまう。
→父子ではない会社や組合といった組織にまで父子の倫理を拡大してこれを儒教と呼べば、彼自身が激怒して反論したかも
@☆☆→日本的儒教思想のゆがみ
→30年前の日本は「忠孝一致」で「孝」を組織へと拡大かした状態を「忠」と呼び、「君、君たらずとも臣は臣たれ」を当然とした社会だった。
 
戦後の帝国主義からの脱却。
臨在感的把握の対象を一変させ、それへの回心によって、自己が回心したと思い込んだに過ぎない。
→「民主主義とは、統治の一形態であって、それ自体の中に克服すべき様々な欠陥を含む」ものとして相対化することは到底日本では認められず、「民主」といえばこれは絶対で、しかも日本のそれは世界最高の別格であらねばならなくなる。憲法も同じであり、あらゆる法は常に欠陥をもつから、その運営において絶えず改正を必要とする存在であってはならず、完全無欠であらねばならない。
 
われわれは「水(=現実)を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる。
しかし、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基である。日本の通常性とは、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界。
 
 
☆☆☆☆☆☆
非常に内容も濃く、面白い本だったが幾分言葉が難しい。
また内容も難解である。
日本人の社会にはびこる「空気」の実態を明らかにしようとした本。